ヨハンナ74歳で逝去!ハイジ以外の作品をいくつかご紹介!

ヨハンナスピリは、60代から70代までの人生を小説家としての情熱を燃やし続けました。ツェルトヴェークの住宅地エッシャーハウスにて1人暮らしをし、小説家で生計をたてていました。
そして1901年7月1日、ヨハンナスピリは74歳で亡くなりました。彼女のお墓は生まれ故郷のチューリッヒにあり、夫と息子の真ん中にあります。
41歳で小説家としてデビューし、亡くなる直前まで彼女は小説家として、沢山の作品を出してきました。
1880年に「アルプスの少女ハイジ」が最大のヒット作ですが、この他にもヨハンナスピリは沢山の作品を出しています。その題名をご紹介しましょう。
1871年 44才(デビュー作品) フローニーの墓の上の一葉
1872年 45才 父の家へ
1873年 46才 迷って見出されて
1878年 51才 故郷を失って
1879年 52才 遠近から 消息は消えたが忘れずに
1880年 53才 ハイジの修行時代と遍歴時代→アルプスの少女ハイジの原案
1881年 54才 ハイジは習ったことを使うことができる→前年作品の続編
1882年 55才 短編集第一部 日曜日
1885年 58才 ある弁護士の生涯→新聞に掲載
1886年 59才 短編集第二部
1887年 60才 彼女は何になるべきか
1888年 61才 アンツールとスキレル
1889年 62才 スイスの山々 彼女は何になったか
1889年 62才 コルネリは教育される 誰でも人を助けるほど小さくはない
1890年 64才 ロイヒテンゼーテ
1891年 65才 ヴェルデンシュタイン城
1894年 68才 レザー家のひとり
1901年 74才 シュタファミューレ・水車小屋(ヨハンナスピリ生涯で最後の作品)
以上がヨハンナスピリが小説家として、発表した全作品です。彼女が亡くなった10年後には「スイスの女性」と題して、ヨハンナスピリの一生を描いた本が出版されました。
これだけ多くの作品を残したヨハンナスピリですが、1900年代以降に入ると、「ハイジ」が日本にも知れ渡るようになりました。正式に日本に「ハイジ」が有名になったのは、1920年2月15日です。
英語版になっていた「ハイジ」を初めて日本語に訳して発表されました。
1937年にはアメリカで「ハイジ」の名前で映画化されました。モノクロの88分構成の実写版映画です。ですが映画の時間が余りにも短かったため、原作とは大幅に内容が変更されました。
1951年にはヨハンナスピリの没後50年を記念して、スイスでヨハンナの肖像画入りの記念切手が発売され、爆発的に売れました。さすがに地元生まれの作家として、ヨハンナは人気があったことがよく分かります。
1952年地元スイスでモノクロ映画「ハイジ」が上演されました。ハイジの人気はどんどん上昇していき、世界的にも超有名な作品として知れ渡っていきました。
1953年11月には、地元スイスで、小学生の提案で募金をしてマイエンフェルトに「ハイジの泉」が出来上がります。
1968年、チューリッヒにヨハンナスピリ財団が建てられました。そこにはヨハンナの残した作品集、写真、絵、下書きなどが大切に保管されています。
日本ではヨハンナスピリのハイジ以外の作品は余り見かけることはありませんが、根気よく探せば日本語に訳したヨハンナの本が何処かの大手書店で見つかるかもしれません。あれだけ多くの作品を生み出した彼女のことです。ハイジ以外の作品だってきっと本として販売されているでしょう。