ハイジの完成後!ヨハンナに思いもかけない不幸が続いた!

アルプスの少女ハイジが誕生したのは、ヨハンナが53~54歳の時でした。その後も別の小説を執筆し、活躍を続ける彼女でした。
作品では大ヒットが続く状況でしたが、私生活の方は余りよくありませんでした。一人息子のベルンハルトの結核の病状が芳しくありません。
空気の澄んだラガーツの温泉で療養生活を続けてきたベルンハルトは、決して弁護士になることを諦めてはいませんでした。そんな彼を見て、ヨハンナも母として出来るだけのことをしようと試みます。
ハイジが誕生した3年後、ベルンハルトはイタリアのピザへ旅行に出かけました。これが彼にとって最後の旅行になるとは、誰しも予想がつきませんでした。
結核は現代の医学のレベルなら、十分治療できる病気ですが、1800年代はまだまだ医学的な進歩はなく、結核などの伝染病は「不治の病」と言われてきました。別名「肺病」とも呼ばれ、伝染力の強いこの病気は周囲の人達にまで影響を及ぼします。
結核を患うと、せき込んで血を吐きます。そして高熱が続いて、食欲が低下し、抵抗力、体力共にどんどん弱っていき、最後には命を落としてしまいます。
1884年という1年間は、ヨハンナに取って最大の悲劇が襲う年となりました。看病の甲斐もむなしく、一人息子のベルンハルトは29歳の若さで、とうとう亡くなってしまいました。一人息子を突然亡くしたヨハンナと夫の落胆ぶりは相当なものでした。
夫は一人息子を自分の跡取りとして考えていただけに、ショックからなかなか立ち直れず、ヨハンナも途方に暮れるばかりでした。子供が親より先に逝ってしまうことは本当に辛い以上のものでしかありません!
まして1人っ子となりますと余計にです。
一人息子を亡くした2人は、息子との思い出を大切にするため、再びラガーツの温泉付近で暮らし始めます。そこで夫婦だけでひっそりと暮らしていくことになりました。
ですがまたヨハンナに2度目の悲劇が襲います。夫が仕事の激務で体調を崩してしまいました。過労による肺炎を患ってしまったのです。息子を亡くしてまだ半年もたたないうちに今度は夫が病気となり、ヨハンナは看病を始めました。
ですが夫は息子を亡くしたショックから立ち直りきれず、かなり心労も重なっていました。ヨハンナは夫にはどうしても病気に打ち勝ってほしいと神に祈りをささげました。
ですがヨハンナの願い虚しく、息子に続いて夫まで神に召されてしまいました。享年62歳でした。愛する息子と夫が半年の間に逝ってしまい、たちまちヨハンナはひとりぼっちになってしまいました。
1884年5月13日に息子が他界、そして同年12月19日に夫が息子の後を追うように他界…不幸のどん底に突き落とされたヨハンナは、悲しみに暮れて、小説の執筆活動に手がつけなれないほどになっていました。
彼女は57歳になっていました。人生まだまだこれからという時に、大切な息子と夫を相次いで亡くしてしまい、ひとりぼっちになってしまった彼女に今後どんな運命が展開されていくのでしょうか?
実に見ものです。

アルプスの少女ハイジ!主人公のモデルはもしかしてヨハンナ?

1880年から1881年にかけて、「ハイジの修行時代、遍歴時代」とその続編「ハイジは習ったことを使うことが出来る」が読者の間でたちまち人気となり、その後改めて「アルプスの少女ハイジ」が誕生しました。
この「ハイジ」を出したことがきっかけで、ヨハンナスピリとして実名を公表しましたが、この「アルプスの少女ハイジ」の主人公のモデルは、原作者のヨハンナスピリ自身のことではないでしょうか?
この作品を書いている最中、彼女は自分の幼いころからの体験を元にしているとは分かっていますが、主人公ハイジの行動とヨハンナの行動にはとても共通点があります。
まず、ハイジは物語の最初からアルプスの山々に感動して、山や野原を駆け巡ります。ヨハンナも幼いころは、お転婆で元気にアルプスの風景を眺めながら、野原を走り回っていました。ここが1つ目のハイジとヨハンナの共通点です。
もっと探してみますと…!!ハイジはマイエンフェルトから叔母のデーテに連れられて、父方の祖父であるアルムおんじへ向かうことからストーリーは開始されています。実際にヨハンナもマイエンフェルトにはいたことがあり、友人の村から散歩がてらこのハイジの元となる物語を考えていました。
只アニメ版によく「デルフリ村」と名前を聞きますが、実はスイスにはこの村の名前の存在はなく、架空の村とされています。実際にある村はマイエンフェルトの道と繋がっているヨハンナの友人が住むイニエンス村となっています。
それからハイジが8歳になって、まだ字も読めず、何も教養がないことから、叔母のデーテが無理矢理おじいさんと引き離してフランクフルトへ連れて行きます。ハイジにとって、これはスイスを離れ、ドイツの大都会フランクフルトへ大富豪の娘、クララの遊び相手として滞在することになります。
ここでも共通点が発覚してます。ハイジはフランクフルトにてクララと一緒に字を覚えるなどの勉強をしています。一方のヨハンナも一時家を離れて叔母の家に滞在してフランス語やピアノの勉強をしています。
本格的なフランス語を勉強するため、ヨハンナはフランスに短期留学、そしてハイジはフランクフルトで本を読めるようになる勉強や、教養を身に付けることを学んでいます。ハイジの場合は自分の意思でフランクフルトに来てるわけではないですが、まあこれも1つのホームステイと言っていいでしょう。
生まれ故郷を離れて、勉強している点ではハイジもヨハンナも同じです。それから深刻なことも共通点があります。
それは慣れない都会生活で、ハイジもヨハンナも酷いホームシックになってしまったことと、そして心の病を抱えたことです。山の田舎で育ったハイジもヨハンナも、大都会での生活にはなかなか馴染めず、それを我慢してとうとう病気になってしまいました。
ハイジの場合、夢遊病になって屋敷の中をまるで幽霊のようにうろついていた所を、クララの父と医師に発見されて故郷のスイスに帰れることになりました。ですがヨハンナの場合は違います。
彼女は宗教や夫の配慮で有名作曲家の音楽を聴くことで、自力で病気から立ち直っています。ここが違っています。
やはり幼くして両親を亡くしたハイジが、血縁者が1人もいない大金持ちの屋敷にしかも遠い故郷を離れていきなり大都会に連れてこられたら、孤独感で一杯になるのは無理もありません。
当時結婚したばかりのヨハンナが、夫といきなり知らない都会で住居を構え、心細い思いをしたことで、その辛かった体験を主人公のハイジに重ねたのではないでしょうか?
やはりハイジのモデルは、ヨハンナ自身そのものです。

1880年ついに完成!ヨハンナの代表作アルプスの少女ハイジ!

41歳で本格的な小説家としてデビューしたヨハンナは、匿名ではありましたが、どんどん作品を出しては人気が急上昇しました。
彼女は順調に小説家としての道を歩んでいました。ところが愛する一人息子が不治の病の結核を患ってしまい、彼を療養させるためにマイエンフェルトの近くのラガーツの温泉へ行きます。
一人息子の病気を心配するも、ヨハンナは小説家としての仕事を休むわけにはいきませんでした。やはり息子の病気を治すためには多額のお金が必要です。夫も仕事を頑張り、ヨハンナも今まで以上に小説の執筆に力を入れて行きました。
この時彼女は53歳になっていました。イニエンス村に学生時代の友人が住んでいたので、ヨハンナはよく友人の家を訪問していました。友人の姪がヨハンナの書く小説に感動していましたが、どちらかと言えば大人向けの作品が多かったので、友人はヨハンナに是非子供向けの小説を書いてくれないかと依頼してきました。
ヨハンナはそんな友人の頼みをすぐに承諾しました。子供向けの小説とは一体どんな内容にしたらいいのか?と彼女はイニエンス村からマイエンフェルトの小道を散歩しながら、新しい作品を考えていました。
子供向けに受ける作品!自分が子供の頃体験したこと、そしてスイスの素晴らしい自然や空などを題材にしたらどうだろうか~とヨハンナは考えに考えます。
一方結核を患った息子のベルンハルトは、父の後継ぎとして弁護士になる為の勉強をしていました。小さい頃音楽家を夢見た彼でしたが、病弱だったのを理由に断念せざるを得ないと言った苦い経験がありましたので、せめて両親の役に立ちたいと、父の仕事の弁護士を目指し始めました。
しかし、ベルンハルトの病状は良くなる兆しが見られません。ヨハンナは息子の病気の悪化を心配しつつも、彼の強い意思に魅かれ、勉強することを許しました。
息子の静養するこのマイエンフェルトは素晴らしい風景に囲まれていました。澄み切った青空、周囲の山々、美しい大地などヨハンナの子供向け作品を考えるには絶好の場所でした。
彼女の子供時代の思い出や色んな経験をもとに執筆された子供向けの作品、それが「ハイジの修行時代、遍歴時代」の題名で誕生しました。後の「アルプスの少女ハイジ」の元になる作品です!
この作品でもやはりヨハンナは匿名で、出版しました。ですがこの作品、たちまち人気に火が付いて、続編を読みたいと言ったリクエストが彼女の元に多く届きました。
翌年、彼女は続編として「ハイジは習ったことを使うことが出来る」の題名で出版しました。そして初めて本名のヨハンナスピリで出したのです。続編を出したのは大成功!ますます「ハイジ」の人気は高まっていきました。
しかしそんな母の大成功を、息子のベルンハルトは快く思ってはいませんでした。本来ならヒット作を出した母を誇らしく思うはずですが、彼はハイジの続編など出すべきじゃなかったのではないかと、激しく批判しました。
もしかしたら、ベルンハルトは自分の病気がもう治らないと悟り、自暴自棄になってしまったのではないか?と推測します。
母ヨハンナはどんどん作品書いて成功してるのに、自分は病身の身でありながら、父の後継ぎの弁護士になれないのではないかを焦りを感じていました。両親の役に立てないことを彼はとても悔しがっていました。
そんな状況の中、ついに1880年ヨハンナスピリの代表作・アルプスの少女ハイジが産声をあげました!

ヨハンナ40代の転機!本格的な小説の執筆を開始させた!

31歳になったヨハンナは、夫と息子と共に、ブレーマーハウスに引っ越しをして新しい生活をスタートさせました。息子も徐々に成長していき、夫もますます多忙になっていきました。
30代の彼女は夫を支えるため、1日の殆どを主婦業で終わっていました。小説を書く暇など全然なかったのです。
そして夫はチューリッヒ市官房長となりました。この時ヨハンナは32歳になっていました。一人息子と3人家族で、ヨハンナの生まれ故郷にて過ごす運びとなりました。夫は市官房長だけでなく、チューリッヒの専属顧問弁護士の仕事もするようになりました。
とにかく30代のヨハンナは忙しくなった夫を支えながら、一人息子の育児や家事に追われていて、暫くは専業主婦となっていました。
やがてヨハンナに転機が訪れます。夫がチューリッヒ市長書記となり、彼女はその市長書記夫人として、家族3人クラッツ地区の官舎に引っ越して住み始めます。すでに彼女は41歳になっていました。
一人息子もかなり大きくなり、専業主婦の時間を持て余すようになったヨハンナは、友人に手紙を書き始めました。何枚も何枚も自分の思いを込めて書き綴りました。
その友人は誰かは分かりませんが、ヨハンナの手紙の内容を読んだブレーメンの牧師に小説家としての才能があると見出されます。そこで牧師は、ヨハンナに戦争犠牲者のための義援金に関する小説を是非書いてほしいと申し出ます。
これがきっかけで、ヨハンナは本格的な小説家として、執筆活動を開始させました。最初は匿名で作品を出すことが多く、40代で彼女は色々書いた作品を本として出版させることが多くなりました。
つまり、41歳でヨハンナは小説家デビューしたのです。今までの専業主婦の生活から一変し、彼女はどんどん小説を書くようになりました。
デビュー作品からもうすでにヨハンナの作品は、人気が出始め、その後も彼女は匿名のままで書いた小説の本の出版まで増やしていきました。
まさにヨハンナの小説家としての花が見事に開いたのです!しかし匿名にしてた理由は何だったのかは申し訳ないのですが、分かりません。でも次から次へと素晴らしい作品を出し続けた彼女は、この40代こそ一番輝いていた時でもあったのです。
一人息子の子育てもひと段落し、夫の仕事も順調で、ヨハンナの小説家人生は順調に進んでいきました。
読者をすぐに引き付ける内容を描き続け、ヒット作を生み出した彼女は、小さい頃詩を書いていた才能がまさしく活かされたと言えます。
人間の才能って何処でどんな形で花開くか、予想は付きませんが、これだけ世の中に貢献出来る作品が書ける人っていうのはそんなにいないのではないでしょうか?
一体ヨハンナはこの頃どんな内容の小説を書いていたのでしょうか?やはり彼女自身が体験したものの内容が多いのでしょうか?具体的な作品内容は別の形でご紹介しましょう。
どんな小説内容か、アナタも気になりませんか?

ヨハンナ長い病気療養の末!結婚して3年目に長男が誕生!

25歳で結婚し、遠く離れた都会生活に馴染めなかったことで病気になってしまったヨハンナでしたが、長い療養生活の末、やっと回復しました。
病気が治るまで約3年間かかりましたが、彼女は何とか自力で病気を治すことに成功しました。これは夫の深い愛情と理解があったからです。それこそ夫婦で乗り切った努力の賜物です。
そして28歳になって、ヨハンナは一人息子を授かりました。名前はベルンハルト・ディートヘルムです。子供が誕生して、ヨハンナと夫にとって本当の幸せが始まろうとしていました。
ですが息子のベルンハルトは生まれつき体が弱くて、病気ばかりしていました。育児は大変なものでした。ヨハンナもまだ心の病から立ち直ったばかりなのに、彼女の結婚生活は次から次へと難題が降りかかってくる有様でした。
でも母となった彼女は、大切な一人息子を深く愛し、大事に育てて行きました。でも病弱な息子には素敵な才能がありました。
それはバイオリンを演奏することです。息子に音楽の才能があることをいち早く発見したヨハンナは、息子の奏でるバイオリンに自分もピアノ演奏に参加することを習慣にしていました。
息子のベルンハルトも母ヨハンナが、自分の才能を認めてくれることを大変嬉しく思っていました。バイオリン演奏が好きな彼は、本格的に音楽家になりたいという夢を抱くようになりました。
ヨハンナもそんな息子の夢を叶えてあげたい気持ちはありました。自分自身も10代のころは、叔母の家でホームステイをしながら、フランス語、ピアノを必死で勉強しました。その後はフランスに短期留学し、本格的なフランス語を勉強したお蔭で、今では日常会話が出来ます。
それはヨハンナの母が勧めてくれたからこそ、今があります。ですが自分の時と息子とは凄い違いがあるということを彼女はもうすでに分かっていました。それは息子自身が病気がちで、とてもよそに音楽の勉強に出す気になれなかったのです。
折角音楽家になれるチャンスなのに!とヨハンナは考えに考えましたが、息子の病弱な体のことを思うと迷いが生じました。
留学はさせたいけれど、体が弱いと遠く離れた時にその先で何が起こるか分からない、やっぱり一人息子のためには、父母の元で一緒に暮らす方がいいのではないかと最終的には決断をしました。
音楽の才能に満ち溢れていた一人息子をどうしても遠くにやることが出来ず、ヨハンナは息子に音楽家への道を諦めさせることになってしまいました。「体が弱くて何が起こるか分からない」と言う理由からでした。
ベルンハルトは、母のそんな説得にどんなに残念な気持ちを抱いていたかと思うと不憫でなりません。好きな音楽の勉強がよそで出来なかった…普通なら両親に自分の夢を実現させてもらえなかったということで、怒りの気持ちを抱くものですが、ベルンハルトは反対に、母がいかに自分のことを愛して心配しているのかが、分かり素直に受け入れました。
音楽の才能が伸ばせるチャンスを断念したベルンハルトの気持ちを思うと、本当に残念です。

結婚生活は波乱万丈!ヨハンナは慣れない都会で病気になった!

ヨハン・ベルンハルト・スピリ弁護士と結婚したヨハンナスピリは、ワイマールに新婚旅行に出かけました。新婚旅行が終わると、2人は都会へ引っ越します。それは夫のヨハン・ベルンハルトが弁護士の仕事を持つ傍ら、スイス連邦新聞の編集長も務めていたので、毎日が多忙な日々になってしまいました。
田舎育ちのヨハンナにとって、都会での生活は戸惑いと不安の連続でした。でもそれでも夫を支えなくてはいけなくなり、段々彼女に心労が出始めてきました。
それでも彼女は頑張って都会での生活に馴染もうと努力してきました。ですが、その努力も長続きはしませんでした。
慣れない都会生活はヨハンナの心に重い負担になっていたのです。そして心労がたたって彼女はとうとう病気になってしまいました。明るいはずの結婚生活が一転して、暗くなってしまいました。
ヨハンナは生まれ故郷を思って、ホームシックになってしまいました。ですが帰ることは出来ませんでした。
現代で言う心の病に彼女は取りつかれてしまいました。心の病は治すことが本当に難しくて、本人次第でないと立ち直る術もありません。ですから本人が心の病を本気で治したいと思わない限り、治癒することは不可能です。
ヨハンナの父が精神科医ですが、彼女は実家から遠く離れた都会に来ていましたから、父に助けを求めることさえ不可能でした。食事も満足に出来ず、慣れない都会での生活はヨハンナには辛いものでしかありませんでした。
夫は忙しくて、なかなか妻の面倒まで見る余裕はありませんでした。ヨハンナの孤独感は相当なものでした。実家へは帰りたくても帰れません。
そんな時、彼女は宗教に関心を寄せるようになりました。どうにもならない自分の心を宗教に求めていました。
そうしているうちに信仰に目覚めていき、ヨハンナの心の病が徐々に回復に向かっていきました。「神様が私の心の病を治してくださり、癒してくださいました。」と彼女は神様に感謝するようになりました。
心の病がなかなか回復しない夫もそんな彼女の気持ちを察してか、知り合いの作曲家ワーグナーの演奏会によく2人で出かけるようになりまた。夫は夫なりに音楽で、ヨハンナの心を癒そうと考えていました。
心の病気には、夫の深い愛情と理解も必要です。そして音楽を聴くことも大切です。音楽を聴くと自然と心が安らぎますし、落ち着きます。
しかし夫が有名な作曲家と知り合いだったとは意外でした!しかも夫は友人ワーグナーの援助をしていました。しかし、ヨハンナはワーグナーのことは好きではありませんでした。その理由はワーグナーが次から次へと女性を変えては交際してたからです。
宗教と音楽を聴いていくうちに、ヨハンナの心の病も少しずつ回復していきました。彼女自身馴染めない都会生活でどんなに寂しく、心細かったか…ホームシックになっても仕方がないことですね。
それでも彼女は自分自身で立ち直りました。凄い女性です。

ヨハンナ25歳!兄の紹介で弁護士の男性と結婚

20代ともなれば、女性は誰しも「結婚適齢期」を迎えます。昔は10代後半で結婚するケースが多く、20代前半でも遅いくらいだと言われていました。じゃあ20代後半だともう行き遅れ?扱いされるのでしょうか、なかなか結婚は難しいとされていました。
ヨハンナは10代でフランス語やピアノを猛勉強し、すっかり教養は身に付けました。小さな妹たちのために、自分で勉強したフランス語やピアノを教えるなど、ホイサー家の小さな家庭教師として、大いに家族に役に立ちました。
妹たちにフランス語やピアノを教える傍ら、ヨハンナは大の読書好きになり、時間を忘れるほど色んな本を読みました。やはり彼女自身、小さなころから詩を書いていたせいもあって、有名詩人の詩に関する本を沢山読みました。
ヨハンナの心の中には有名詩人の詩に感動を覚えさせるものがあり、また新しく詩を書きたいと願いだしました。そして勉強を続けました。
勉学に力を入れていたヨハンナは、結婚のことなど頭にはありませんでした。
そんな時、兄の紹介で弁護士の男性と知り合います。彼の名前はヨハン・ベルンハルト・スピリです。この時ヨハンナは25歳になっていました。ヨハンとヨハンナは交際を初めてすぐに意気投合し、結婚しました。
そして結婚後ヨハンナスピリと名字が変わりました。
ここから彼女の本格的な小説の執筆活動が始まります。ヨハンナスピリ、本名そのままで小説を出しました。一番最初に出した小説名は「Ein Blatt auf Vrony’s Grab」です。
小さいころから詩を読んだり書いたりすることを好きだったヨハンナスピリは、結婚生活に入っても、自分のしたいことは実行していました。これは夫の協力・理解がないと出来ません。彼女の小説の内容はチューリッヒで自分が体験したことをそのまま小説にされています。
現代の女性では当たり前とされている「仕事と家庭の両立」をヨハンナスピリはもうやっていたのです。自分のやりたい仕事を家庭を持ちながらでも実行している彼女は、本当に素晴らしい人間です。
自分のやりたい仕事というのは、なかなか出来るものではありません。やはり下積みを経て努力してやっていくものです。途中で投げ出すともうそこでやりたいことの実現はありません。ですが彼女は何もかもやり通したのです。
結婚したばかりだと、勿論家族と離れて、夫と2人暮らしになり、環境や生活もがらりと変わったのですから、一般の人間だと戸惑いと不安で一杯になります。ですがヨハンナスピリの場合は、小説と言った仕事を持つことで、支えになっていました。
小説…終日机に向かって執筆するのですが、これは本当に大変な仕事です。自分の頭で考えていかに読者に魅かれるような文章を書くのは至難の業です。
小説の仕事と家庭の両立で忙しくなったヨハンナスピリ。でも夫が弁護士なので、それ以上にもっと忙しい日々を送るようになりました。
ですが明るいはずの結婚生活も、その後大変なことへと発展していきました。

叔母の家でホームステイ!ヨハンナは色んな勉学を志していた

母マリガリータの勧めで、ヨハンナは14歳~16歳までの約2年間、叔母の家にホームステイしながら、色んな勉強を始めました。
フランス語とピアノの勉強です。この年頃と言えば、習い事が多い時です。私自身も塾に書道教室、ピアノ、英語教室にも通いました。
ヨハンナがどういった形でフランス語やピアノを勉強したのかは不明ですが、多分叔母の家にホームステイしたのは、彼女の家の傍には学校がなかったのでは?ないかと考えられます。
ヨハンナは田舎で育ちましたので、母のマリガリータが彼女をスイスの少し都会的な所で勉強させてやりたいと言った思いから、叔母の家に預けられたのでしょう。
でも小さいころから詩に目覚めていたヨハンナです、フランス語もピアノも順調に勉強が進みました。常に彼女は勉学に対しては、向上心に溢れていたんですね。
でも私自身もそうでしたが、自分の母国語以外の言葉を勉強しながら覚えるのって、10代でも結構大変でした。私は中学時代は英語を学びましたが、やはり最初はアルファベットから勉強をスタートさせました。ヨハンナも最初はフランス語のアルファベットから覚えました。
語学はいきなり話すことはせず、ひたすら聞くこと、書くことから覚えて行きます。つまりヒアリング力を身に付けて行くと、徐々に話せるようになっていきます。
そしてヨハンナは16歳の時、本格的なフランス語を勉強するため、フランスのイヴェルドン地方へ滞在します。今で言う短期留学です。短期留学は、専門の先生に習って語学の勉強を集中的にします。
ヨハンナは勉学に置いては、とても興味のあることが沢山ありましたので、人の何倍も一生懸命努力を積み重ねていきました。そして数か月後、彼女は見事にフランス語が堪能になるまでに上達しました。
短期留学は、何故か語学上達が早いのです。やはり現地で学んで生のフランス語に触れた方が、いかに早く話せるようになるかが分かります。
そして書くことも重要です。自分の母国語をフランス語に訳すとどうなるか?を学びます。私の体験談にすると、やはり書くことは沢山しました。初級の段階であれば、1行の文から書いていきます。
そして中級なら2~3行、上級に進めば、ある程度の文章が書けるようになります。そのある程度とは、自分でボキャブラリーを考えて、文章にすることです。
短期留学を終えたヨハンナは、故郷ヒルツエルに戻り下の妹たちに、自分の学んだフランス語やピアノを教えました。小さな家庭教師になったのです。何とも優しいお姉さんです。
そして家のことも積極的に手伝うなど、ヨハンナは16歳にして随分大人へと成長していました。
やはり一時期的に家を出て、叔母の家でホームステイをしながらフランス語やピアノを学び、そのままフランスへ短期留学して本物のフランス語を勉強したお蔭でヨハンナは大人になれたと言えます。
母マリガリータの判断は正しかったと、よく分かります。まさしく「可愛い子には旅をさせよ」ですね!

兄弟の多いヨハンナ!幼少時代から小説に目覚めていた?

幼少時代のヨハンナは、スイスのチューリッヒ州のヒルツエルの田舎で育ちました。スイスののどかな自然と、美しい山々に囲まれた彼女は小さいころはかなりおてんばな少女でした。
裸足で野山を駆け回り、兄弟仲良く遊んでいました。おてんばなヨハンナのことですから、はしゃぎまくっては、擦り傷など多かったに違いありません。
でもヨハンナの育った環境って本当に素晴らしいものばかりでした。スイスの風景がそして澄んだ空気が彼女を健康な元気な子供に育ててくれたのでしょう。
ヨハンナは兄弟たちと元気に遊ぶ傍ら、母のマリガリータの作る詩によく耳を傾けていました。子供心ながらに、母の素晴らしい詩に感動を覚えていました。ヨハンナの母方の祖父は牧師で、教会で説教をしていましたから、母のマリガリータはそんな牧師であった父を素晴らしい人だと尊敬し、賛美歌もよく歌って聞かせていました。
母の綺麗な讃美歌と詩の素晴らしさを知ったヨハンナは、自分自身も詩を書くようになりました。完全に母マリガリータの影響を受けていました。
そんな時に母の友人の女性画家、男性の作家やその妹と知りあったことで、ヨハンナは本格的に仲良くなり、これが彼女の今後の人生に大きな影響をもたらすこととなります。
詩はポエムとも言われますが、書くのって実に難しいです。何をテーマにして書くべきか、まずその題材の元になるものを探さなくては書けません。
ヨハンナはどんな詩を子供時代には書いていたかは、分かりませんが、やはりスイスの素晴らしい自然を題材に詩を書いていたことでしょう。
山、青空、周囲の森や木々、牛やヤギなどの家畜たちなど、目に見えるものすべてを、彼女の持ち味を出していたことが分かります。
例えば雲なら「あの雲はまるで○○のようだ。何処へ行くの?」とか牛、ヤギなら「おいしそうに草を食べてるけど、牛さん、ヤギさんは今何を考えてるの?私とお話出来たらいいのになぁ。」みたいな調子で書いて楽しんで母に読んで聞かせていたことも考えられます。
母のマリガリータは、幼いヨハンナの詩の中に隠された才能を見出しました。「この子には何か素晴らしいものがある。本格的に色々勉強を始めれば、必ずよいことが見つかるかもしれない。」と彼女に英才教育を受けさせてやりたい、と考えるようになりました。
でもまだヨハンナは小さかったので、英才教育を受けるのは少し先になりました。
ヨハンナの隠された才能とは一体何だったのでしょう?子供の才能を見出すのって親であってもなかなか難しいものです。でもヨハンナの母マルガリータは何かを見抜いていたのです。
やはり幼いころから母自身が作った詩、そして讃美歌を歌ったり読んで聞かせてるうちに、ヨハンナは詩がいかに素晴らしいかに早くも気づいて、彼女自身母から教わることなく、自分から進んで詩を書くようになりました。
この詩を書くことが後の小説へ目覚めさせるきっかけとなりました。

美しい大自然のスイスで誕生!ヨハンナスピリの両親の職業とは何?

ヨハンナスピリ、旧姓ヨハンナルイーズホイサーは、1967年6月12日、6人兄弟の4番目として誕生しました。
ヨハンナの父の名前は、ヨハンヤーゴブホイサー、母の名前は、マリガリータと言います。ホイサー家の子供達7人のうち、1人は病死してしまいました。8人家族を養うために、父のヨハンヤーゴブは医学を勉強して開業医として働いていました。
ヨハンナの父は、あの時代にしては珍しく精神科医でした。病院にはちゃんと入院できる設備を用意し、精神を病んだ人達を優しく治療したり、入院させて患者の面倒をよく見ていました。
そんな母マリガリータもヨハンヤーゴブを医師として支え、入院患者や子供達に優しく接しながら、賛美歌を歌いながら日々を送っていました。マリガリータの父親は牧師であり、その影響からか、優しい女性であったことが分かりました。
ですが精神科医の仕事は大変です。入院患者からは一切目が離すことが出来ず、24時間体制で様子を見なくてはなりません。
ヨハンヤーゴブは、暫くして家と病院を同時に大きくして、ヨハンナをはじめとする子供達や入院患者を一緒にして食事をさせる提案をします。
マルガリータは自分の子供達の面倒を見る傍ら、入院患者の世話までありとあらゆる家事全般をこなす羽目になりました。その最中にマリガリータの父が亡くなり、彼女は自分の母や叔母、いとこまでボイサー家に引き取って、大人数の食事の支度からその他の家事まで量が半端なく増えました。
でもそれでも彼女はへこたれませんでした。
幼いころのヨハンナは、父、母、母方の親戚、兄弟、入院患者と大所帯の中で生活していたのです。賑やかな所帯だったんですね。
でもヨハンナの父が精神科医だったとは驚きました。でも家族や入院患者を大切にしてたのですから、周囲からは信頼が厚かった医師だったことが分かります。そして母も一生懸命に家族や入院患者のために尽くして、心の優しい持ち主だったからこそ、両親は力合わせて頑張っていたのです。
マルガリータは牧師の父の血を受け継いているのか、詩人でもあります。家庭では子供達に詩を作って読んで聞かせていました。現代の母親が子供に絵本を読んで聞かせるのと同じように、深い愛情を込めて読んでいました。
母のマリガリータが詩人であったことが、娘のヨハンナの将来に大きく関わっていくのはもう少し後のことになります。
ヨハンヤーゴブが精神科医として働くので、マルガリータは看護師の役目もしていました。それが入院患者を支える存在でもあったのです。
でも大所帯ですから、食生活も大変でした。スイスでは牛ややぎを家畜として大切に飼い、朝早く起きて乳しぼりをする習慣があります。でも今の日本の様にしぼったミルクを工場で加工するようなことはしていませんでした。
やぎのしぼったミルクはとても栄養満点で、ビタミンやミネラルが豊富です。それに血液中のコレステロール値を抑えることも出来、とても健康にはよいのです。
只やぎのミルクで一番難点なのは、匂いです。やぎのしぼりたてのミルクは周囲の匂いを吸収しやすく、すぐに雑菌処置を行う必要があります。当時のスイス人の雑菌の仕方は残念ながら分かりません。
でも新鮮なしぼりたてのミルクを食卓に添えるのは、本当に健康な食生活の証と言えます。